4月といえば新年度の始まり。この春から新しく士業としてスタートを切った方もいらっしゃるのではないでしょうか?しかし言わずもがな、資格試験を通過することがゴールではありません。士業としての本当のスタートは資格を取得した後に切られるのです。今回はそんな士業試験の中でも難関に属する「社会保険労務士₍以下、社労士₎」の先輩に「資格取得後の壁」についてお話を伺いました。今春から社労士としての第一歩を踏み出した方も、また新米社労士と共にお仕事に就かれる方もご参考にしていただければと思います。
₍以下、特定社会保険労務士 モリ事務所 代表 森 克己氏₎
社労士試験は合格率が7%前後の狭き門です。近年まれに見る難関だった第45回試験などは、合格率が5.4%でした。また社労士試験の特徴は「膨大な試験範囲」です。労働法令科目、社会法令科目の隅々までを問われ、受験生は1年間みっちりそれら法令を勉強します。当然短期間で合格した人、点数が高かった人は優秀な人材であることは間違いありません。では、そのような人が優秀な社労士になれるのか?というとまた違う話だと私は思います。
かくいう私もその「優秀な合格者」でした。その私が現実社会で直面した壁と失敗を今改めて振り返り、今後の自分の戒めとしたく、この記事を書かせていただきます。
社労士試験に受かりやすいタイプの人・弱いタイプの人
私は某大手資格試験予備校で14年間非常勤講師として勤務し、週2回の社労士クラスを担当してきました。受講生の皆さんの状況は様々でした。現在就業中であり、今の会社の業務に社労士の知識を活かそうという人、会社を勤め上げた後に独立開業しようという人、また転職のツールと考えている人、学生さん・・。その中でもやはり成績には個人差が出てきます。これは勉強ができる・頭がいいという話とはまた違って、「試験に受かりやすいタイプ」と「試験に弱いタイプ」に分かれてきます。
あくまで個人的見解ですが、受かりやすいタイプの人とは、素直に法令や数字を「覚えられる人」です。社労士試験は記憶が勝負の試験です、一つひとつの法理や制度の趣旨を理解できればそれに越したことはないのですが、現実的にはそれだけで数年かかります。
私が良く教壇で話したのは「問題文を読んだら、何も考えずにテンポよくスラスラと解答が言えるまで覚えなさい」でした。大学受験ともちょっと違う、よくアマチュアスポーツの世界で「記録より記憶を」なんて言いますが、この試験は「納得より記憶を」です。
逆に勉強不足は論外ですが、しっかりと勉強をしているはずなのに成績が振るわない人もいます。私が思うに、これには数パターンのケースがありますが、一番多いのは会社の総務などで実務経験のある人です。こんな人ほど力も知識もあるのに現実の業務と試験の内容のギャップに苦しみ、混乱してしまうようです。
このような様々な人が厳しい合格率を勝ち抜いて、晴れて社労士になる訳ですが、さらにその先には独立開業や社労士知識を見込まれての就職・転職など現実の世界が待ち構えています。
新米社労士に立ちはだかる現実の壁
私事で恐縮ですが、私は平成5年に社労士試験を受験しました。ある予備校に通っており、手前味噌ですが成績はトップクラスでした。直前試験では、予備校で一番を取りましたし、「解らないことは森さんに聞くといいよ」なんて言われ、よく他の生徒さんに教えたりもしていました。先にお話しした「とにかく覚える」を実践し、試験も一発で合格することができました。
では、その努力と記憶力は仕事でどのように役に立ったでしょうか?
結論から言いますと、(社労士の皆さんには同感していただけると思いますが)ほとんど役に立ちませんでした。
合格後、ある中小企業に就職し、人事・総務の責任者となったのですが試験勉強で溜めこんだ知識と、会社での現実とのギャップに大変苦しみました。そのエピソードのひとつとして、ある日こんな出来事がありました。
その会社は従業員がシフト勤務で働いていたのですが、従業員の一人が前日に有給休暇を申し出たのです。当然、シフトに支障が出てしまいます。就業規則では有給は1週間前に申請する事と規定していましたが、ご存じのとおり労働基準法では前日申請ならば基本的に会社は拒否できません。責任者は私に「森さん?他の従業員への示しもあるし、この人は欠勤扱いにしようと思うのだけれど」と相談に来ました。私は杓子定規に労基法の解説をし、「でも法律では認められていますから…」と説明すると、「じゃあ何のために就業規則があるんだ?」と憤慨され、挙句の果てには「あなたは誰の味方なんだ?会社じゃないのか?」とまで言われる始末です。結局その従業員は欠勤扱いとなり、社内にギクシャクした空気が流れてしまいました。
今思えば私も若かったので、経営陣を納得させる力や言葉がなかったのです。今であれば、まず従業員に有給を取る理由を聞き、緊急でなければ会社のルールを説明して説き伏せたでしょう。またはそれがやむを得ない事情であれば、責任者を説得し、とにかく双方が納得する形に収める努力をしたと思います。
当時の私は法律や数字だけが頭にあり、職場のコミュニケーションを図るのも大事な社労士業務のひとつだなんて、考えてもいませんでした。こちらが相手を信頼しないのに、相手が私を信頼してくれるはずはありません。私としてもとても後味の悪い思いをしたのを覚えています。
そして思うに、社労士試験に一発合格した私より、現場と試験のギャップに苦しみ、合格まで数年を費やした社労士の方が、きっと人間的な対応ができたのだと思います。
その会社は元々の知り合いで、試験に合格したからと自分を雇い入れてくださったのに、振り返ると申し訳ないことをしたと反省しています。
しかし、この経験はその後の独立開業に大いに役立ちました。
社労士に一番必要なものは――
この答は各先生によって異なるでしょうが私は「人間力」だと思います。人間力とは、ちょっと堅くなりますが文部科学省によると「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」であり、
- 知的能力的要素
- 社会・対人関係力的要素
- 自己制御的要素
を、バランスよく高めたものである。とあります。
起業して仕事を獲得するための営業力やお客様との交渉力も大切ですが、社労士業務は「人」相手の仕事です。会社には経営者、従業員など様々な登場人物がおり、その人間関係も含めて会社をより良く構築していくのが社労士の仕事です。
法律や制度は変わっていきますし、その都度調べて覚えればよいことです。土台にある人間力を培うことが、良い社労士になる、ということではないでしょうか。
ですから、この春から新しく社労士を雇い入れようと考えている会社さんがあったら、試験の点数や合格までの受験回数ではなく、それまでの社会経験とこの人間力を見極めた採用をされることをお勧めします。
余談ですが、先日シンガポールの「建国の父」と呼ばれ、91歳で亡くなったリー・クアンユー元首相に関する、日揮(株)重久吉弘グループ代表のこんなエピソードを読みました。
重久氏が「中国でビジネスするにあたり、重要なことは何でしょうか?」とリー氏に尋ねたそうです。
「すると氏は私に『真の友人をつくりなさい』と言われた。その後、私たちは中国のパートナーと真剣に交流するようになり、事業拡大につなげられたのです。」
私はこのお話に大変共感を覚えます。社労士に限らず、ビジネスパートナーは「先生」「社長」の関係を超え、相手の懐に飛び込み、真の友となる気構えで仕事をして初めてお互いを信頼し合い、納得のいく結果を生み出せるのではないのでしょうか。
社労士を20年続け今、思うのは「知識より信頼を」です。
■著者:モリ事務所 代表 森 克巳
■HP:http://mori-roumu.com/web/
1987年法政大学法学部法律学科卒業。製薬会社MR、医療法人人事担当管理職を経て、平成11年に開業。「労働問題」の専門家として、地域の中小企業の労務問題と真摯に向き合い、数々の困難な問題を解決。豊富な経験に裏打ちされた適切なアドバイスには定評がある。
- 一発合格した新米社労士が現実の壁にぶつかった話 【合格編】
https://mh-sp.com/sigyou-news/782/ - 独立1年目社労士、新規顧客は0…|【開業奮闘記】
https://mh-sp.com/sigyou-news/1009/ - 社労士としての強みはとある労使トラブルから生まれた
https://mh-sp.com/sigyou-news/1128/
■まとめ
- 社労士試験の試験勉強と実践では直結しない局面がある
- 「いい社労士」とは「人間力」をもった社労士のこと
- 新米社労士は「人間力」を磨く経験を!